滋賀を拠点に、知的障害のある人・福祉施設職員・プロのダンサーが参加する「湖南ダンスワークショップ」ディレクターの北村成美氏。義足の女優・ダンサーである森田かずよ氏。宮城県仙台市で障害のある人・ない人が共に踊る「みやぎダンス」を主宰する定行俊彰氏。障害とさまざまな形で向き合う三人が、活動を通じて捉えてきたダンスの本質について話し合った内容を紹介します。
みやぎダンス『わたしとわたしのイエイエ』
1.ダンスが生まれるところ
森田:
私は当事者なので、世の中的にいう「障害のある身体」を持っていて。それまでの人生においては、そこまで「障害」っていうものを感じてこなかったのですが、自分が表現活動、舞台活動をしたいと思った時に、拒絶みたいに色々なことのバリアを感じたんですね。それが私にはすごくショックでした。
障害がある人が表現をするっていうことが、あまりにも世間的に認められていないし、健常の、っていう言い方していいかわからないけど、健常の人が想像つかないんだなってことにすごいショックを受けたんですね。
負けん気が強い性格だと思うので、それに対して出来ますってそのとき言えなかった自分にもすごい腹が立って。じゃあどこまでできるかやってみようと、最初は大学の演劇部から活動を始めました。それで長く長く時間が経過し、今に至るという感じですね。本当はダンスに憧れがあってやってみたかったけど、この身体で踊りたいって人に言えるようになるまでに、2、3年はかかりましたね。恥ずかしいというか、出来ないと思っていたのもあります。朗読とか、お芝居の方がまだ言えたんです。卒業後、演劇のレッスンをしたミュージカルスクールに入り、そこでやっとダンスを始めました。ダンスを始めて2年間くらいは、踊るというよりも筋トレのような感覚でレッスンをしていました。できないことだらけの中、「できる型」にちょっとでも近付こうとするっていうことを繰り返してきただけで、まだ「踊る」っていうことに至ってなかったと思います。
その時期は、車椅子ダンスもやっていました。ちょうど長野の冬季パラがあって、車椅子ダンスの存在が注目された時期だったのですが、やっているうちに、その当時普段の生活でも車椅子を使用していなかったので、自分とっては車椅子に乗って踊ることに違和感も抱えていました。
そんな中、ダンスを始めて3年目にヴォルフガング・シュタンゲ(※1)のワークショップ受け、それが本当にびっくりしました。それまで私の中では、どこかで「ダンスは鍛錬をしてもっとこういう身体にならないと踊っちゃいけないんだ」みたいに捉えていましたが、「もっと自由に、もっと気持ちで踊っていいんだな」って思えるようになって、気持ちが軽くなりました。
森田かずよ氏
定行:
僕も、ヴォルフガングとの出会いが大きかったです。
重症心身障害の人らとの接点があり、高校を卒業するころから、障害のある人と一緒に何かできないかな、っていうのは僕の根底にありました。教員養成系の大学には行っていたんですが、ただ、学校の先生として障害のある人に教えるということではなく、違うところで関わりたいなと思っていて。それで、大学ではボディーワーク(※2)や演劇をずっと勉強していました。ヴォルフガングのワークショップを仙台で企画したのは、卒業して何年か経ったときです。
ダンスに対して、みんなで何か「一緒のこと」をするものという既成概念が僕の中にはありました。でも、彼のワークショップに自分でも参加した中で、その概念が総崩れになっていきました。「こんなに自由に動いていいんだ」と。自由であるっていうのは、勝手であるとか暴力をふるうっていう自由ではないですよ。安全な、限られた場の中で、自分が動くことに対して自由であるっていうことを保証したときに、障害があるとかないとか関係なしに、人はこれだけ動きたいという衝動を持った生き物なのだと、分かりました。
一緒に参加したメンバー達を見ても、初日は萎縮してその辺に座っていた人が、次の日には真ん中で踊ってるんですよね。その根底に、衝動があるんですよ。何か動いて出したいっていう。それに触れたときに、これっていいなって思ったんですよね。
そのときのワークショップに参加したメンバーと、そのメンバーの親たちから「仙台でも定期的にワークショップをやってほしい」って言われてやり始めたのが、みやぎダンス発足のきっかけです。
発足してから3年間、ヴォルフガングを毎年招いてワークショップをやってきました。そこでは本当に濃密な時間が流れていて、みんなは自由に踊っている。僕はそれを見ていて、綺麗やなって思ったんですよ。するとヴォルフガングに「これはイギリスだったら、普通にお金取ってみんなの前で公演しているんだよ」って言われ、びっくり仰天でしたね。それを仙台でやりたいと思い、さらに数年かけ、旗揚げ公演を行いました。
定行俊彰氏
北村:
私はヴォルフガングさんとは直接接点はないんですが、私が留学して振付を学んだのがロンドンにあるラバン・センター(※3)というところで、素地はだいぶ近いんですよ。
お医者さんを目指す人も入るようなインクルーシブなコースで私は学んでいたのですが、同級生にデイビッドという、腰から下の両足がない人がいました。2012年のロンドン・パラリンピック開会式のときに、ソロを踊ったダンサーです。当時、彼は全く踊ったことがなかったけれど、カンドゥーコ(※4)に入団することになったので、ラバン・センターに学びに来たんですね。
コースではコミュニティダンスのクラスが組み込まれていました。どんな体形・年齢の人でもダンスに参加するプログラムだったのですが、デイビッドは最初は参加せず、ずっと見学していたんです。しかし、ソロダンスを作る課題が全員に出され、とうとう踊ることになりました。彼は最初、車椅子に乗ってダンスをしようとしていたんですが、教授から「降りてみたら」という助言があり、車椅子を使わないダンス作品を作りました。
300人位の学生がいる学校ですが、彼が踊るからっていって、学科関係なく多くの学生が学内のシアターに見に来たので、超満員でした。彼が腕だけで踊るところは、私達もそれまで見たことがなかったんです。
そのときのダンスは、私も含めた全員が概念を覆されるような体験でした。彼自身も、自分の中にある概念を覆すようなことが起こっていて、それを私たちが舞台で見るという、ものすごい瞬間に立ち会わせてもらいました。
その後日本に帰ってソロダンサーとして活動を始めた頃に、社会福祉法人グローの山之内洋さんから、糸賀一雄記念賞音楽祭(※5)で発表するために、障害のある人たちにダンスを教えてください、とオファーがありました。教えるようなダンスはしたくはないけれど、振付は好きなので、指導でなく振付であればやります、と答えて、実際にワークショップの現場に行ってみました。
そうして出会ったのが、いまの湖南ダンスワークショップのメンバーです。そこに、素晴らしい世界が待っていたわけですよ。すでにダンスがそこにある、と。もう指導する必要なんかなくて、逆に私がその人たちのやっているダンスを見せてもらうような感じでした。これはもう、本当にその人自身の体から生まれた、本当に生のリアルなダンスでした。
北村成美氏
定行:
「ダンスがそこにある」というとき、その「ダンス」の概念が違う人がいっぱい居ると思うんですよ。「ダンスがそこにある」って人に言って、その人が実際に見たら、「これはダンスなの?」という感想だったりする。
北村:
そうなんですよね。そこが難しいんです。いわゆる習ったものを言われた通りにやるっていうことでもダンスは生まれるんですけども、私が考える、本当の意味でのダンスというのは、「踊らずにはいられない欲求」ではないかと思います。
定行:
僕は作品作るときに「その人がどういう動きをしたいのか」「何が見えるのか」「その動きの中にどういった意味があり、何を感じているのか」ということを大事にしようと思っています。
「みんなでこっちを向いてほしい」と言ったりすることはあります。ですが、ただ向いてって言われたから向くロボットにはなってほしくない。向いたときにその人の中に、どういう景色が見えるのか。あるいは向きたくないならば、どういうことが自分の中で起きているから「向きたくない」という気持ちになったのか。
そういった、「自分の中に感じた意味」と「動きたい衝動」がくっつくときに、心の中に火がつくのだと思います。
あなたが人として生きて、そこに立ってね。そして、そこから火がついたように、わっとエネルギー出る瞬間があったらいいよね…。そんなことを一個一個大事にして、作品を作っていきたいなって思います。
(※1)ヴォルフガング・シュタンゲ
舞踊教育家、振付家。1947年ベルリン生まれ。1970年代前半、精神病院の患者にダンスを教えたことが機会となり、様々な障害のある人・ない人が共に身体で表現する「ダンス・ダイナミクス」のメソッドを創り出す。1980年、ミキ・ダンス・シアターカンパニーを設立。以降、数々の舞台を発表するとともに、世界各地でワークショップを展開している。
(※2)ボディーワーク
身体に関する様々な療法・施術法・アプローチ等の総称。特に、身体を動かすワークを通じ、身体と心の全体的な調和をするセラピーを指して用いられることが多い。
(※3)ラバン・センター
ロンドン南東部に立つ、音楽とコンテンポラリーダンスが統合した芸術学校。日本からも毎年数名が留学しており、帰国後、コンテンポラリーダンサーとして活躍する人物も多い。
(※4)カンドゥーコ・ダンス・カンパニー
1991年、セレステ・ダンデガーとアダム・ベンジャミンにより設立。障害のあるダンサーとないダンサーが共に活躍する、プロダンスカンパニーとして、世界各地でのツアー公演や教育プログラムを展開している。
(※5)糸賀一雄記念賞音楽祭
障害福祉の発展に尽力をした糸賀一雄氏の志を受け継ぎ、障害福祉等の分野で顕著な活躍をする個人・団体に授与される「糸賀一雄記念賞」の受賞者をお祝いするため、2002年より滋賀県で開催されている音楽祭。知的障害のある人を中心に、施設職員やプロの音楽家・ダンサー等、約200名が毎年出演している。
2.身体と向き合う
森田:
身体障害者のダンスでは、「私の身体はこうじゃない」という身体に対するネガティブ感の裏返しの気持ちから、自分にできることを探そうとすると思うんですよね。それはとてもいいことだと思うのですが、ただ人並外れたことをすることだけじゃないな、思うこともあります。車いすに乗ってスピンで回れることがいいとか、すごいアクロバットとか超人的な技がわかりやすいですし、それもスキルだけど、ダンスってもっといろんな表現があって可能性があると私は思ってるんですよね。
その上で、身体障害のある人にとって、ダンスレッスンは重要だと思います。障害があると、身体の使い方を学ぶ機会はすごく少ないです。私自身、最初はもうどうしていいのかわからないところにいたので、レッスンを受けまくっていました。長く続けているとようやく、変な言い方ですが自分の身体に慣れるというか、どう動けるのかわかるようになったから、やっと自分で踊れるようになったというか。
身体障害のある人が自分の身体にネガティブというか、嫌な感じを持ったら、生きていくのは本当に辛い。でもダンスは、自分の身体とか存在を好きになる、というか自己を肯定する力があると思っているんです。結局、自信は自分でつけるしかないのですが、自分の身体に慣れるっていう感覚を、持っておいて欲しいんですよ。
定行:
アスリートを育てるためのダンスではないですからね。僕はかずよさんのダンスを見て、自分の身体を人前にさらけることに対し、本当にすごく綺麗だと思ったんですよ。でもそこに行くまでは、葛藤があったのでしょうか。
森田:
大半の身体障害のある人は、歩くことを真似されてショックを受けるとか、子供に指差されるとかっていうのを一回は経験していると思うんですね。そういったことに対して、私も小さいときはネガティブでした。
定行:
それを越えたのは?
森田:
なんでしょうね。うーん。自分の踊ってる動画をちゃんと見れるようになったときとか、私の中で結構大きな壁を乗り越えたときだったかもしれないです。自分の頭の中での動くイメージと実際の動きって、なかなか一致しないんですよ。特に身体障害があると、さらにギャップがあるから、余計にそういうことはしなくなるんですよね。それができるようになったら、たぶん変わると思う。
定行:
それはダンスに出会って何年くらい経ってからですか。
森田:
ソロ作品を作り始めてからなので、7年くらいでしょうか。その作品では、義足を外して踊りました。「もっと自由にやっていいんだ」と思えるきっかけになった作品です。
森田かずよ×北村成美『ボン・バカンス!!』
3.振付を振り返る
定行:
「ダンス」と同じく、「振付」も、違う意味で捉えられていると思います。
北村:
湖南メンバーの踊りの素晴らしさを伝えるためには、振付とか演出の出番が必要だと思うんですよ。
よく「湖南のダンスは振付していないでしょう」と言われるんですけど、全くそんなことはなく、一人一人への振付があって、成立しています。メンバーは、身体の使い方は意識せずに、やりたい動きをやっているんですね。でも、それを本人の横で私がやってみせる。横で同じ動きをやる人がいることで「自分はこういうことをやっていたのか」という発見がメンバーの中に生まれます。それが動機となり、さらなる動きが生まれていきます。それは、鏡ではなく、振付の人間だからできることなんです。
定行:
それはよく分かる。人が一緒にやってやると、そこに動きたいっていう衝動が生まれる。
北村:
あと、空間をデザインすることが重要なんです。メンバーの中には独特の美学を持って空間を使える人もいますが、それができない人もいます。そういう人に対して、どう光を当てるかっていうことが、振付や演出です。
例えば、全員が点在して踊っていたら、どこにいい踊りがあるか、分からないじゃないですか。そこで、動ける人間がざっと一回、舞台下手(※6)に行こうとします。こうします、と説明してやろうとするのではなくて、事を起こすだけでいいんです。そうすると、それに協力してついて行く人もいれば、動かずに残ろうとする人も出るわけです。
動こうとする行為も残ろうとする行為も、その人にとってのダンスになりますし、人が動くことで、残ろうとする人が映えることにもなります。すると人が点在していたときよりも空間が涼しくなるし、それによってさらに場所を動こうとする人が出てくることもあります。
湖南ダンスワークショップ『うみのはた』
定行:
その人がどう動くかっていう、空間づくりのデザインをする。本当に、みんなでわーっと踊った後にその場からワッと去ったとき、そこに残るやつがいて、その人が動いたとき、面白いなって思いますよね。その空間を作ればいい。本当に、空間の作り方は僕らの手にかかっていると思います。
北村:
「みんなセンターに集まって場を作らないといけない」みたいな、舞台上の様式美ってあるじゃないですか。その様式美を追求する舞台にしたいのなら別だけれど、そうでないのなら、実はどのようにしてもいいわけですよ。
最近ではワークショップの会場の中で、客席をどちら側にするかということをあらかじめ決めて踊ることができるようになったのですが、最初の頃は、本当に一切動かない人もいました。
そこで「その人がここに居るんやったら、今日はこちら側を舞台正面にしよう」みたいに、その人ありきで空間をデザインするんですね。日によって客席も円形にして舞台の周りを取り囲んだり、二面に分けたり。
で、その人が会場隅の、もうむちゃくちゃ狭いとことかに居たりすると、そこだけをアクティングエリアにする。すると、みんな窮屈だから、そのエリアから外出ちゃったり、頑張ってその中でやろうとしたりとか色々なことが起きてくる。他にも、その人がアクティングエリアから出てどこかに行ったら、あえて全員でその人について行って、客席で見ている人を置き去りにしてしまうとか、とにかく舞台の概念を壊そうとしていた時期がありました。ばかばかしいけれど、それが舞台として面白くなる。そういうことを繰り返していくと、一切動かない人も面白くなってきて、自分のことを見せるようになるんですよね。やっぱりその場から動きはしないんですが。
で、そういう人と劇場で実際に踊るとき、すごく配置が難しいわけですよ。板付(※7)でできたら良いのですが、それができない人の場合には、かなり緻密に本人の行動をシミュレーションします。例えば開演前に舞台袖の位置に立ってもらうと、本番ではその人が舞台袖からヒョイっと出てくる構造になるとか、あの手この手で立って欲しい位置にいくような仕掛けをしているんです。まあ、実際にはそれが上手くハマることもあれば、そんな段取りに関係なくその人が自分でパーっと踊り出しちゃったり、色んなことが起こるのですが…。
(※6)舞台下手
舞台用語。客席側から見て、舞台の左側を指す。
(※7)板付
舞台用語。開演して幕が開いた時、すでに舞台の上に演者が立っていること。
4.舞台と福祉、それぞれの専門性
森田:
でも色々なプロジェクトに関わっていると、動かずに残ろうとする人の面白さを見抜く力を持った人が少ないことを実感します。やっぱり、その残っている人を連れていくのが正しいと思っている人も、中にはいらっしゃるじゃないですか。
北村:
そうなんです、そことの戦いなんですよ。
森田:
ここ昨今、障害のある人・ない人が一緒に関わる舞台作品のプロジェクトに参加する健常者の人で、そういった人がまだ多いなという印象です。それは障害のある人の身体や能力を低く見てる、と私は思います。プロジェクトによっては、クリエイションの期間が短いために、演出家が面白さを見抜く時間がないということもありますが。
定行:
お世話をするっていうこと自体が、ある形にはめようとしているでしょう。形にはめることじゃなくて、形を外して空間デザインをすることが大切です。ただ外すだけでは何も生まれないんですけど、ちゃんとその人が動く空間をデザインした上で形を外したときに、何が生まれるかということが楽しいんですよ。そこを、横に来て「一緒にやろう、次こうやで、こうやで」なんて言われたら、げんなりしますよね。
北村:
私はよく「舞台にお手伝いさんはいらない、ダンサーだけでいい」って言っています。お世話しちゃうと結局、その人が世話されてるという見え方でしか舞台に乗らなくなるので、その人の美しさとか、その人から生まれる動きっていうのが全部殺されるんですよね、だからやめてほしいんです。
一方で、そういったことを言うのは、アーティストサイドの話であって、実際のいわゆる福祉の現場ではそういうスタンスではいけないだろうし、そういう概念がないわけですよね。
湖南ダンスワークショップでは、参加する施設の職員さんがダンサーとして舞台に立っています。最初は、そんなつもりではなかったんですよ。ワークショップの場にいるのは、この素晴らしいダンサー達だけでいい。お手伝いのような人は邪魔なので部屋から出ていってほしいと思っていたんですよ。だけど、安全面を考えたときに、その人たちを外してワークショップはできない。だったら、一緒に踊ってもらおうという考え方になったんですよね。
でも専門職の人にとって、「お手伝い」という専門的なことをやるな、そこを禁じ手にして踊れって言われることって「何考えとんねんこいつ」って話じゃないですか。私も若かったから、結構真っ正面からぶつかったりしていました。
舞台人として場を見る眼力と、福祉の専門家の方が持っている眼力というのは少し違うんですよね。だから、互いの良いところをそれぞれ出し合おうということに行き着きました。福祉の専門の方がその人のことを見ることができるのであれば、ダンサーとして舞台に立ち、その人が格好良く見えるように介助を全部ダンスとしていけばいいんだと。5、6年かかりましたが、お互いにそれが見えてきたときに、「あ、こういう風に居ればいいのか」という、やり方みたいなことができてくるんです。障害のある人が劇場の舞台に立つということは一つの壁だったのですが、そうすることで乗り越えることができました。
福祉の専門の人が、心理的なバリアを外してダンサーとして立てる状態になっていくまでは、結構大変でした。でも、そこにコラボレーションがあるんですよね。その人たちだからこそパフォーマンスとして成立させることができる、すごく美しいエスコートっていうのがやっぱあるんです。それは、私には出来ないし、どれだけ上手いプロダンサーでも出来ないです。同時に、例えば「私は送迎ですから」って自分の役割を限定してしまう人にも、それはわかり得ない世界です。
だから振り返ってみると、お互いに「それじゃ困るんです」って言い合いながらやってきたことで、職員の方たちは、福祉の専門性をもったダンサーという、新しい特別な人材、アーティストになられたという気がしています。
定行:
今の話は、僕らの初期の頃と重なります。僕らの場合は、メンバーの保護者の人たちとの関係でした。月謝のように、お金をもらって活動をしているのですが、しげやん(北村さん)の言うように、舞台でもお世話しないことに徹し、放っとくわけですよ。すると「ちゃんと指導してほしい」っていう声が出てきます。
最初の頃は保護者の方たちに稽古も見てもらっていたのですが、「先生の言うことをきちんと聞きなさい」って子どもに言われたりしてしまう。保護者の方たちは、みんなと同じ動きで4拍子を取って踊って、先生が言うことを聞いて、っていうダンスを思い浮かべ、望まれていたんわけですよね。やりたいのはそうじゃないダンスなんだ、ということに馴染んでもらうのは、すごい大変でした。
稽古場では好きに踊っててええやん、って僕が言っても、家に帰ると保護者の人が本人にダメ出ししたりするんですね。その後は、稽古場には入らないで欲しいこと、公演の楽屋にも入らないで欲しいことをお願いしてきました。送迎のために来られる保護者の方には、稽古の時間はどうぞ遊びに行ってください、お買い物に行ってくださいっていうことを、何年もかけてずっと言い続けて。
最初の10年くらいは、保護者の方にどう伝えたらいいんだろう、って悩みました。今では、本番前は保護者の皆さんだけで観光に出かけたりするようになりました。そういうことを受け入れた方たちが残った、と言えるかもしれませんが。
だから公演で見てもらって、うちの息子こんなに動けているのか、こんなことができるのか、と驚かれます。それは、応援になりますよね。
北村:
湖南ダンスワークショップも、踊らない人は部屋の外に出てください、というスタンスですね。中にいる人は踊る人です、というところから始まっています。
一つは、送迎のヘルパーさんが来ても、メンバーは部屋の中にいる人とは踊っていいんや、って思ってるから、踊りに誘うわけですよ。それもまた踊る気のないヘルパーさんにとっては災難ですよね。
もう一つは、私たちだけで集中してクリエーションする時間に、他者の目を入れると、やっぱり疲れたり集中が途切れて、ダンサーがその人のところに逃げて甘えてしまうということがあって。だから、本当にダンスを作る環境を考えると、保護者やヘルパーさんには退出してもらうことにしました。
ただ、湖南ダンスワークショップの場合、最後に「湖南音楽祭」という、その日のワークショップでの本番の時間を必ずやるんです。なので、その本番は見てもらっています。
定行:
そうやって、保護者だったりヘルパーさんだったり、職員との関係をうまく作っていかないと成り立たない。それは難しいことだけれど、面白さにもなる。
みやぎダンス『わたしとわたしのイエイエ』
5.はみ出す力
森田:
最近は、知的障害のダンスは、ストリートダンスやヒップホップみたいなものがすごい増えたと思います。でも現場によっては、そこでできない子たちをやっぱり落としていくことがよく起きていると思います。特に知的障害のある子とやるときって、できない子を邪魔者、厄介者にしちゃうプログラムが多い印象です。
どのプロジェクトでも、動かない子や寝たままの子とか、いるじゃないですか。会場から出て行っちゃう子とか。でも私は、時間をかけて色々なことを試していくと、その子がちょっと違う方向に変わっていったりと、なんなら本番めっちゃ動いてた、輝いてたとかいうことがあることを経験しています。だからこそ、試す時間がないときにジレンマを感じるというか。
定行:
全員を同じ振付にすると、その振付から外れていく人たちが、変な人とか、できない人っていう風に見られるのがすごい嫌ですね。
北村:
クリエイティブなダンスの世界においては、その人こそ華なんですよ。全員が踊っている中、一人のダンサーだけを止まらせる、みたいな振付はいっぱいある。アスリートのように訓練した人たちのそういう作品ももちろん素晴らしいけれど、実は「あの人できてない」って思われるような行為でも、それと同じことが起きていることが、もうちょっと知れたらいいのになって思うんですよね。
定行:
あえてみんながやってることと違うことをしたい、という衝動が生まれてくるのはすごいことだなと思っています。
北村:
どちらかというと、そういう衝動を起こすために振付がありますね。絶対こんなん間違うやん、ってくらい難しくしたり。
森田:
みやぎダンス作品の振付もそうですよね。みんなに誤作動を起こさせる。
北村:
でも、なんかその揺れの中で、味わいというか形が見えてくる。
定行:
ダンサーはみんな同じ方向を向いていて、なんとなく同じテイストなんだけれど、どこかズレている面白さ。でも、そのズレっていうのは個性だと思う。できないからって怠けてやられると作品にならないけれど、ダンサー自身の踊りたい衝動で、持っている力でできることをやろうとして起きるズレは、滅茶苦茶おもしろい。
北村:
例えば小学校とか、特別支援学校の高等部とかでコンテンポラリーダンスの授業をする時も「いや、しげやんの言う自由な表現とかじゃなくて、もっとみんなで一糸乱れずやるような、訓練のためにああいうのをやってほしかったのに」って言われてしまうこともあります。
そういう感覚は根強くどこの世界にもあるじゃないですか。障害福祉の世界にも、それはやっぱりあるんですよね。
6.見せることへの意識
定行:
みやぎダンスとして定期的に活動を始めるとき、とにかく何年かかるかわからないけど、まずは公演することを目指そう、って僕は保護者とメンバーに言ったんですね。それも、300円とかではなく、地元の演劇団体と同じ、何千円っていうお金の設定でやりましょうって。
北村:
本番を目指すっていうのは、すごく健全というか、特別なことじゃない、普通やなって思うんです。私も最初に依頼があった時、「施設の余暇活動でダンスを教えてくれる人を探してます」って言われていたら、たぶん断っていたと思うんですよ。糸賀一雄記念賞音楽祭の公演日が決まっていて、それに向けて3ヶ月間で作品つくってくれませんか、っていう話だったから、じゃあやります、となって。私はダンスを作りたい人間だから、発表がないと、ダンスをやるモチベーションが保てないんです。それ以上踊る気持ちが起こらんな、みたいな。湖南ダンスワークショップのメンバーもそうで、突き詰めていくと、本番がやりたいんですよね。
定行:
やっぱり似ていますね。ちゃんと人に見せたいっていう衝動がある。
北村:
お二人ほか「優れたパフォーマンスが全国から集結!」(※8)に参加した各団体は、経緯は違うけど、みんなプロの舞台人としての気持ちを持つ人たちなんやな、と思いました。そこには、障害があるとかないとか、世代も国も関係ないんやなっていう気がするんですよね。
団体によっては、始めたきっかけが余暇活動とか、何かサークル的なことだった場合もあるし、運命のように出会ってしまったことがきっかけで始まることもあるかもしれない。とっかかりは違っても、やはり舞台に立つっていうことは、それ相応のプロ意識が万人にあるのだと思います。
定行:
呼んでくれてありがとう、見てくれてありがとうっていうよりも先に、ちゃんとそこに立って見せますっていう、そういう意識のようなものがね。
北村:
プロとしての意識で舞台に立つ喜びであったりとか、そこにある葛藤とか課題とか、一通りの営みっていうのは、万人に与えられるべきものやと私は思うんですよ。こういう病気やからできませんとか、こういう障害があるから無理ですね、ではなくて。
だから私は、相手がどんな人であっても、舞台に立つ上では同じ命題を要求します。舞台が好きだし、舞台に立つ人も好きだから、そこで燃焼してもらいたいじゃないですか。それがやっぱり舞台の一番の魅力です。
その前提に立った上で、障害があると言われている人たちに対しては、そこを目指すために必要な相応の工夫をしていく、という順番ではないかと思います。
(※8)「優れたパフォーマンスが全国から集結!」
文化庁、並びに障害者の文化芸術国際交流事業実行委員会の主催で、2019年2月に滋賀・びわ湖大津プリンスホテルにて実施された催事。みやぎダンス、湖南ダンスワークショップ、森田かずよ+北村成美によるダンス作品が上演されたほか、音遊びの会(即興演奏)、いわみ福祉会芸能クラブ(伝統芸能・石見神楽)による公演や、障害のある人の舞台芸術に関するシンポジウム等が開催された。
森田かずよ
PerformanceFor All People.CONVEY主宰。NPO法人ピースポット・ワンフォー理事長。二分脊椎症・先天性奇形・側湾症を持って生まれる。18歳より表現の世界へ入り、ある時は義足を身につけ、ある時は車椅子に乗りながら、女優・ダンサーとして活躍。循環プロジェクト、奈良県障害者芸術祭ソロダンス「アルクアシタ」、ニットキャップシアター、ヨコハマパラトリエンナーレ、庭劇団ペニノ、SLOW MOVEMENT他、多数の舞台に出演。第 11 回北九州&アジア全国洋舞コンクール バリアフリー部門チャレンジャー賞、DANCE COMLEX vol11 芸術創造館・館長賞受賞。神戸大学人間発達環境学研究科博士前期課程在籍中。
北村成美
ダンサー、振付家。通称、なにわのコリオグラファー・しげやん。6歳よりバレエを始め、英国ラバンセンターにて学ぶ。「生きる喜びと痛みを謳歌するたくましいダンス」をモットーに、ソロダンサー振付家として国内外で精力的な活動を展開。2006年より湖南ダンスワークショップの活動を始め、ディレクターを務める。平成15年度大阪舞台芸術新人賞。平成22年度滋賀県文化奨励賞。
定行俊彰
兵庫県西宮市生まれ。宮城教育大学小学校教員養成過程卒業。カリフォルニア臨床心理大学院修士課程卒業。大学在学中に故竹内敏晴氏のもとで、演劇と人間関係、自己表現とからだの感覚などについて学ぶ。1992年、ウォルフガング・シュタンゲ氏のワークショップを企画、参加。その際、今までのダンスにたいする既成概念を打ち壊されるような衝撃と感動を受ける。1998年「みやぎダンス心体表現の会」を立ち上げ、2005年のNPO法人化より、理事長を務める。障害児、者と健常者とのダンスの他にも西アフリカに伝わるドラムとダンス、仮面のダンスなども踊っている。日本ゲシュタルト療法学会員、ゲシュタルト療法ファシリテーター、スクールカウンセラー、仙台ゲシュタルト&カウンセリングルーム主宰、公認心理師。
2019.2.9 びわ湖大津プリンスホテルにて採録
障害者表現活動の地域拠点づくりモデル事業(滋賀県)