糸賀一雄記念賞音楽祭と
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しょうぶ学園「otto&orabu」訪問レポート

今回は、糸賀一雄記念賞第二十一回音楽祭にゲスト出演する「otto & orabu」の訪問レポートをお届けします。鹿児島からやってくる「otto & orabu」のパフォーマンスは必見です。チケットは以下のバナーをクリックしてお求めください。クラウドファンディングへのご支援、ご協力もよろしくお願いいたします。

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「ずれ」ている。

指揮者の合図を受け、ジャンベやボンボ、ガムラン等の民族楽器から音たちがあちこちから溢れ出す。圧倒的なエネルギーが感じられるその音の塊は、個々のパフォーマーがそれぞれに発したそれぞれの音から成る。当然、そのタイミングも音程も「ずれ」ている。「そんなの、当然だよ」と堂々とした表情の音がある。

一方、「otto&orabu」のパフォーマンスには、音楽的と感じられる要素が確実に存在する。速さとアクセントの(揃ってはいないけれど程よく刻まれる)リズム、曲全体を横軸に構成する(蛇行するかのような)流れ、重なり合う縦軸の(ぎりぎりの調和を感じる)ハーモニー。

満面の笑顔があふれた、明るく健康的な音楽とは言えない気がする。凛として引き締まった訓練や教育を受けた表情の音楽でもない。いたずらっ子が木陰や物置の裏に隠れ、鬼に見つかるのを待っている。かくれんぼという遊びをしているような?と言えばいいのか。子ども時代のシンプルな遊びがあんなにも魅力的であったように、この音楽的「調和」は、なんと人を惹きつけることか。

積極的であるかないかは別にして、私たちは何らかの音楽に囲まれて育った。音楽教育を受けたり音楽に触れたりしてきたことで、音楽の型や様式を体系的もしくは体験的に学んできたと言える。例えば「イントロからAメロ、Bメロと進行してサビに進む」といった曲の進行のように、音楽が進行していく方向は大抵の曲で予測できる。和音やリズム、速度等も、音楽を読み解く要素として私たちの身体にしみ込んでいる。

「otto&orabu」のパフォーマンスは、その予測を見事に覆す。

揃っていない速さとアクセントを含んだリズムは、自分の身体がどのように反応するのかわからないと戸惑いを感じつつも、その心地よさの上に思わず乗っかってしまう。「チャンチキおけさ」からのロック調への展開には思わずのけぞった。曲の進み方に音楽的常識や経験は通用しない。今までに感じたことのない重なり具合の和音が生まれるのは、そもそも西洋音楽の音階を奏でない民族楽器を用いているからか。

初めて出会う音の塊に、自分の中の閉じられた部分を開けてもらっているようで、聴いているうちに心地よくなってくる。少し、また少しと、自分の身体が開かれる感覚。本来なら心地悪さを生じさせる「ずれ」を期待し、反応する身体。

もし、今この瞬間に突然揃った音楽が聞こえてきたら、逆に居心地悪く感じるのではないだろうか、「私を乱すな!」と。そう書いたところで、自分の感覚が逆転していることにはたと気づく。

一般的には、人は揃ったリズムや調和のとれたハーモニーを心地よく感じる。その再現を目指した表現活動に取り組む個人や団体は、障害のある人が参加する否かに関わらず、各地で取り組まれている。表現の一つの形であり、活動の方向の一つである。

一方で、即興的な要素を重視し、曲としての再現性が不可能な方法を追求する方向もある。定まった構造がなく、偶然的で誘発的な音の会話やぶつかり合いを楽しむ。その時その場で起こる音楽的コミュニケーションに身を委ねるこの方法は、障害者の表現活動においては比較的取り入れられることが多いように思う。

「otto&orabu」はそのどちらにも属さない。

社会的に見ると、音楽は人と人の間で共有され、感情を共有する方向で作用する。例えば、アーティストのコンサート会場では、その場にいる人同士が音楽を共有することで「つながっている」という実感を得たり、時代を特徴づける音楽を聴いて、人と人が類似した感情を抱くという経験をしたりすることがある。

「otto&orabu」のパフォーマンスが、聴いている人の閉じられた部分を開いて人の感覚の幅を広げるということは、社会的な意味において大きな可能性を秘めていると言えるのではないだろうか。一人ひとりの身体がひらくことから始まり、風がその身体の中を吹き抜けるように新たな人と人をつなぎ、「ずれ」を楽しめる仲間としての感情として芽生え、コミュニティの質を変えることにつながるのではないか。

「両手を180度まで広げておけばたいていの人について、共感できなくても理解できるようになる」(1)と語るしょうぶ学園長、「otto&orabu」指揮者でもある福森氏の言葉が重なって聞こえてくる。

コロナで出演等の活動がしばらく止まったこともあり、「このタイミングでそろそろ自分の引き際か…なんて思ったりして?」と冗談っぽく話し出そうとされた福森氏の言葉を遮った。12月4日公演後の展開が頭に浮かんでいたからだ。

自分の感覚が開かれていく体験した人ならば抱くのではないだろうか。自分も「ずれ」た音を奏でたいと。

社会福祉法人グロー 法人事務局芸術文化部  山口有子

 (1)福森伸『ありのままがあるところ』晶文社、2019年

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